般若部長の飼い猫 《 第一話  新入社員の気苦労

「……やり直し。学校では何の勉強をしていたんだ。化粧か? それともその能天気な色の髪の染めかたか。来年度から新入社員研修をもっと厳しくするべきだな」

短大を卒業後、上場企業の大手文房具メーカーに運よく就職した 時任 ときとう 理沙 りさ は、入社一月目にしてすでに心が折れそうだった。
それというのも、理沙が半日かけて作成したプレゼン資料を、顔色をピクリとも変えずおまけに説教付きで、ものの数秒で部長に突き返されてしまったからだ。
普段なら部長の百倍は優しい課長にチェックしてもらう書類だが、課長が出張で不在のため、部長の目に直接、触れることになってしまいいまに至る。

「……っし、社則では髪の色についての記述はありませんっ」

「ここは会社だ。その髪色が明るすぎる事は常識でわかるだろう? いつまでも学生気分では困るな」

「な……っ、私、学生気分なんかじゃ……っ」

(般若部長はほんっと、ああ言えばこう言うんだから!)

20代後半で異例の出世をして、最近、部長になったという目の前の上司はニコリともオコリもせず無表情で淡々と理沙の資料に赤ペンでダメ出しをしている。
そのあいまに先ほどのような小言をはさまれるから、よけいに気分が悪い。

(こんなんだから、般若なんてあだ名が付くのよ)

このひとのこの表情以外を誰も見たことがなく、お面を付けたように無表情で部下を叱り、とりつくシマもないので、こんな通り名がついたのだと先輩の女性社員が言っていた。

「……おい、聞いてるのか」

「はい、聞いてます。いますぐ修正してきます」

「2時間以内に再提出しろ。髪をそんなにクルクルと巻くひまがあるんだから、できるだろう。それと、今度からおまえが作った資料は俺が直接、目を通すからな」

丹念にコテで巻いた髪を引き合いに出されてますますカチンとくる。しかも、課長をすっ飛ばして部長がチェックするなんて、少しの甘えも許されないではないか。……それが狙いかもしれないが。

(もう、なんでこんなに嫌味なのよっ! お金が貯まったらデジタルパーマをかけてやるんだから)

部長とは反対にとんでもない仏頂面をしているに違いないと思いながら、理沙は奪うように部長の手から真っ赤な資料を受け取った。

その日の午後、昼休みを削ってプレゼン資料の修正をして何とか般若にオーケーサインを貰った理沙は同期入社で学生のころからの友人でもある 朝霧 あさぎり さくらと給湯室にいた。

「もうーいやっ、何であんなに嫌味なんだろ。昼休み潰してやっとの思いで修正した資料を見るなり、『お前は亀のように仕事が遅い』って言ったのよ!」

課内全員ぶんのコーヒーを淹れながら、理沙は鼻息を荒くしていた。

「ん? 誰がそんな事を?」

理沙が淹れたコーヒーをお盆に並べ、さくらはすっとぼけた返事をした。

「部長よっ、般若部長! もーあの毒舌にはホント頭くる!」

「うーん……理沙が可愛いから、いじめたくなっちゃうのかもねぇ」

さくらは二ヘラッと笑い、たいして気に留めるようすもなく自分のコーヒーをグビッと飲んで、「はぁー生き返るぅ」なんてつぶやいている。
彼女はいつもこんな感じだ。細かいことを気にしないおおらかなタイプなのだろう。
それでも仕事に対しては真面目で、学生時代も彼女がレポートを遅れて提出しているところを見たことがなかった。だから、同期入社の理沙とくらべてさくらのほうが上司にあまり怒られていない気がする。ちょっとだけ、悔しい。

「いつかあの般若をギャフンと言わせてやるんだから!」

「――そうか。せいぜい頑張れ」

さくらが発した言葉ではなかった。
開けっ放しだった給湯室の扉の向こうに、あいもかわらず無表情で部長が立っていた。
会議室に行く途中なのか、手には書類の束を持っている。

「あ、あの違うんですよ、部長のことじゃなくて、その……」

さくらは口をパクパクさせながらあせって取りつくろってくれている。けれど引くに引けない。

「はい、頑張ります」

理沙はめいいっぱいの作り笑顔で威嚇するように部長をにらんだ。

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